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* オールドノリタケと瓢池園

オールドノリタケの最も大きなルーツが瓢池園である。このことはあまり専門書にも言及されていないので、まずその歴史的な背景から概観してみたい。

明治維新後、産業を興して近代国家の礎をつくり外貨を獲得することは、当時の政府にとって緊急課題であった。そこで政府は明治5年(1872年)、翌年に迫ったウイーン万国博覧会への出品物を製作するため、浅草に博覧会事務局附属磁器製造所を建設し、河原徳立にその事務官を命じた。これは有田をはじめ全国から優秀な陶画工たちが召集され、人物や花鳥などの絵付けのみを行う陶画工場であったが、これが所謂『東京錦窯』の発祥である。ウイーン万博への出品という使命を終えた博覧会磁器製造所は、その存続とセーブルのような官立の窯に改変したいという河原徳立の上申に反し、翌明治6年に閉鎖されてしまう。そこで河原はこれを払い下げてもらい、自ら瓢池園を商号とする輸出用陶磁器の絵付け工場を設立する。当時西洋で愛好された日本趣味(ジャポニズム)の絵柄を採用し、陶磁器の上絵付けを芸術的に高めた。これらの作品は東京絵付けとも瓢池園画風とも愛称され、国内外の博覧会で多くの賞を受けるなど一世を風靡した。下のカタログの写真は左が東京国立博物館蔵の『墨絵山水額』、右が某博物館に流れるところを幸いにも譲っていただいた瓢池園製『上絵金彩碁図花瓶』である。

一方、当時森村組は瀬戸の窯元で焼成させた生地を瓢池園をはじめとする絵付け工場に送り、それを輸出していた。 森村組と瓢池園との絵付けの専属契約は明治17年頃とされるが、明治20年代には森村組はこの瓢池園(河原)以外に京都の石田、名古屋の西郷など7ヶ所の専属工場を持つようになる。やがて、輸出需要の増加に伴い、生産効率の面から全国に分散していた絵付け(画付け)工場を名古屋の則武に集約させ画付けだけの統合組織がここに誕生するのである。こうして瓢池園も名古屋に全面移転し森村組の専属工場となるのである。ここに生地の製造と絵付けを合わせた本格的な生産体制が森村組に敷かれるのである。やがて、森村組が日本陶器合名会社(現 ノリタケカンパニー)を名古屋に設立すると明治42年瓢池園は同社に経営を移譲し統合され現在に至っているのである。

河原徳立の上申通り、博覧会事務局附属磁器製造所が、官立の窯へと継承されていたならオールドノリタケは存在しなかったかもしれない。また日本にセーブルのような官窯ができていたかもしれない。オールドノリタケに纏わる興味深いエピソードである。